前回、三十三間堂のことを書き始めていました。
”観音”の慈しみの深さ、その行動力への讃嘆を最も感じるのは、まず、その自己承認へのこだわりの無さなんです。
経典のなかでも、自身に捧げられた供物を何度も断った上で、何度目には受けとりながらも、その供物を分けて諸仏に捧げる場面が出てきます。
相手の前に出る姿・形さえ、相手にとって最善に変化した姿で現れます。
怖れや苦しみからお救いするという思いだけがあって、”自分”を褒めてもらおう、認めてもらおうなんて微塵もない。
この段階でも 共感⇒慈悲、その現れとしての具体的な行動 でインスピレーションに恵まれることが出てくると思います。
そして ”千手”観音
大切な思いのための、”千手”。囚われがなくなることで、いっそう”手”=方法が増え、今まで使ってこなかった、あらゆる手段を駆使していくことができるようになっていきます。
ここで、NLPなり、密教なりの話にもなるのですが
あくまで私の解釈ではありますが
NLPや密教で大切なのは、すごい相手(卓説したセラピストや祈願する仏さま、他)と自分を分けずに、対象に溶け入り、一体化することにあると思うのです。
そして、その立場や思いや感覚を感じることで、思い出したり、開発される思いがあります。
三十三間堂でも、手を合わせる自分と拝まれる千手観音を別に見るのではなく、千手観音に溶けいる、千手観音として相手を、世界を観る。
大変な修行の合間にも”観音経”をあげたり、”観音”のマントラを唱えて、冥想をしたりすることがあるのですが、不思議なくらい、感覚や展開が確実に変わるんですよね。
(5年ぶりの開催を望む)蓮華王リトリートでも、空の冥想とNLPコーチングのアプローチで、愛・慈しみにつながるこの【溶けいる】、そして大切な目的のために【方法をひろげる】にともに取り組んでいこうと思っています。